以下は、過去の知恵袋で回答したものです。

 

 

質問:

 

>夫婦間で通常の性行為以外の、例えば、手や口や、あるいは道具などを使って性器を刺激するような性的な行為を、聖書は許していますか?

 

 

私の回答:

 

どんな行為であっても、問われるのはその「動機」だと思いますね。例えば、聖句は以下のように述べています。

「『あなたは姦淫を犯してはならない,殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない』,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その法典は,この言葉,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです。愛は自分の隣人に対して悪を行ないません」。(ローマ 13:9-10)。

ですから、その行為が愛に基づくものであると言えるのか?という点が最重要視されるべきでしょう。

例えば、その行為は、互いの愛を示し合うための行為でしょうか、それとも単に性的な快楽を追求するためのものでしょうか。

たとえ夫婦間であっても、品性を失い、堕落することは十分にあり得ます。自分一人の場合でも、例えば、食事を食べ過ぎるなら、大食という罪となり得ますね。ましてや、二人であれば、尚のことです。

上記の点を正直に吟味するなら、自ずと結論が出ることでしょう。それは愛に基づく行為でしょうか? その点は、ご自分で判断して決定するべきことだと思いますね。

 

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>では、愛し合うという動機であれば、どのような行為でも許容されるのでしょうか?

 

その点に関する聖書の規定は特になかったと思います。

しかし、愛の真髄は「与える」ということにありますね。性的な絶頂感というのは、その愛の感情が最高潮に達することを見事に表現していると思います。

では、その際、その絶頂感は、「与える」ことによって生じているでしょうか、それとも「受ける」ことによってでしょうか。

もし、後者なら、「受ける」、つまり配偶者から得る、してもらうことこそが至福であるとの間違った認識を持つようになるかもしれません。

そうではなく、配偶者に対する愛を注ぎ込んでいる時こそ、その絶頂感、至福の喜びを感じるべきではないでしょうか。

そうすることで、「やっぱり、この人を愛することは正しい(快い)。これからも続けていこう」との確信を改めて抱くことができると思いますね。

しかし、「受ける」側、してもらっている時に得る絶頂感は「もっとしてもらおう」的な良くない、利己的な動機付けを与えてしまうような気がしますね。

自慰行為もそうですが、そういう間違った場面で得る性的な絶頂感は人に間違った動機を抱かせます。

そういった点を考慮してみるのはどうでしょうか?